hishaismの打ち込み日記

ド素人がピアノを打ち込んで、「わ~できた~!」とはしゃいでいる日記

曲を好きになることについて

 いままで分からなかったことが、急に分かるときがある。なにもイメージできずに聞き流していた曲が、急に情景を持って感じられるときがある。自分にとっての「好きな曲」が出来る瞬間だ。

 ふつうはどうなのだろう、一度聞いただけで好きになることが多いように思う。ポップスであれば曲の雰囲気であったり歌詞のメッセージに共感を抱いて好きになったりするだろう。わたしにとっては美空ひばりの「愛燦々」などがそうだった。

 一方で、クラシックの作品ではそういうことはほとんどなかった。わたしがはじめて好きになったショパンノクターン第2番は例外で、あとはほとんどが何度も繰り返し聞いてゆくうちに、だんだんと好きになっていった作品だ。

 それでも、ショパンの作品中では人気の高い、バラード第1番などは人気の得やすい曲ではあると感じる(曲が迎合的という意味ではない)。明確な対比。Presto con fuoco(急速に、激烈に)のコーダ。バラード2番・3番などもボケーッと「綺麗だなー、最後はかっこいいなー」と思って聞いているだけでもそれなりに満足は出来てしまう(ただし4番はたぶんそれだけでは居眠りしてしまう)。

 わたしが印象を180度転回させたのは、ショパンのPolonaise-Fantaisie だった。この曲は幻想ポロネーズと呼ばれることもあるが、正確にはポロネーズ幻想曲だ。ポロネーズのリズムは断片的に現れるだけで、曲全体がポロネーズであるとは言えない。

 幻想曲というのは比較的自由な形式で書かれるものなのだが、ショパンのこの作品はとりわけつかみどころがない。それは理論的にもそうなのかもしれないが、聴き手として感情的に入ってゆくだけでもとても難しい。たしかに、序奏の広大なアルベジオが響くと、それがそれまでのショパンの世界とはまったく違う何かであるということは分かる。主題と思しき旋律がさまざまな声部で再生され、ついに芯の通った高らかな歌声ではっきりと登場する。けれどそこから曲調が一転して思い出を侵蝕してゆく。激烈になったかと思えばまた静けさを取り戻す。これでもまだ序盤なのだ。

 そんな具合なので、これはもうなにか病んでいるんじゃないかと思って、しばらくこの曲から遠ざかっていた。そして数年が過ぎてわたしが本当に打ちのめされたとき、夜中に真っ暗な部屋でふとこの曲を聴いた。その瞬間、急にこの曲が心のなかで実体を持って感じられたような気がした。終盤の両手がユニゾンで一気に駆け上がり、con forzaで主題が繰り返されるところで涙が出た。ffに至り、全ての苦しみから解き放たれる。ずっと苦しみ続けてきた。けれど、もうここでは思い残すことはない。

 そんなメッセージをその時は勝手に見出して、その熱意をそのままに、大学生時代の夏休み3日間引きこもって打ち込んで作り上げた。今となっては、そんな理解に青臭さが感じられて恥ずかしい。実際にはそういうドラマではなく、もっと冷静に、精緻に組み立てられた作品かもしれないのだ。

 Polonaise-Fantaisie のケースを考えると、継続的に聞き続けることで自分のなかに定着させ、自分のなかで寝かせることで、あるときふっと自分のおかれた状況や感情が引き金となってその曲が分かる瞬間があるのだと思う。だから、自分の分からないもの、とりわけ「分からないけれどなにかがすごい」という予感のあるものにはじっくり向き合う意義があると思う。

 どうにも、最近の自分は、自分の分かるものばかりを摂取しがちな傾向がある気がしたので、自戒の意味も込めてこれを書いた。ふにゃふにゃの離乳食ばかり食べていてはいけない。たまにはバリバリと骨付きケンタッキーを食べた方がいい。

 ……打ち込んだ当時の日記もちょろっと残っているのですが、いやぁ、若いですねぇ、つらかったですねぇ……。

dolce-sfogato.hatenablog.com

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